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熊野の神使、八咫烏

カラス Photo by law_keven

 熊野の神々の使いとされる八咫烏(ヤタガラス)。

 熊野の神々の最初の祀り手である猟師は、狩りの途中に山中迷って困っていたところをヤタガラスに導かれて、初めて熊野の神々に遭遇しました。
 『神道集』巻二に見える熊野権現縁起譚「熊野権現の事」に、そういう伝承が記されています。「熊野の本地5」で現代語訳していますので、それをここに引用します。

  牟婁郡の真砂(まなご。西牟婁郡中辺路町。清姫の故郷です)という所に、千代包(ちよかね)という猟師がいた。獣待(ししまち)をしていたときに道が途絶えて、どこへ行くこともできない。そんなときに八咫烏(やたがらす)が出てきた。

 猟師は大きな猪に手傷を負わせたが仕留めることができず、どこへ逃げたのかわからなかったが、逃がすに惜しい猪なので、探したが見つけられない。
 すると件の八咫烏が先に立って、静々と歩いていった。猟師は怪んで、ついていくと、大平野(おおひらの。未詳)という所で、この烏は色を変えて、金色に見えた。後にある人がこのことについて申したのには、「金の烏は太陽である。外典(仏典以外の書籍)にも『金の烏は天上に遊ぶ』とあるが、それがこの烏である」。

 その猟師は烏と一緒に行くと、曾那恵(そなえ。本宮大社旧社地の川向こうに備崎(そなえざき)という所があり、そこに備宿(そなえのしゅく)という修験道の霊場がありました。ですので、その辺りを曾那恵といったのでしょう)という所へ入った。猪はそこに倒れ伏していた。また、烏は何処ともなく姿を消していた。猟師は怪んで、この猪のことを忘れて、不審に思いながら、歩いていくと、烏もいなくなってしまったので、天を仰いで立っていたところ、イチイガシの大木の上に光る物を見つけた。

 この物が自分に危害を加えようとする物だと思ったので、猟師は大きな鏑矢をつかんで、その発光物体に問いかけ、
 「我は15歳の時から狩りをして、60になるまで、このような不可思議現象に遭遇したことは度々ある。しかし、いまだ不覚をとったことはない。どういう物にでも変じて見せよ」と言った。

 この発光物体は3枚の鏡になって答えて言った。
 「我こそは天照大神の五代目の子孫にして、摩訶陀国のしばらくの主、また我が国でも先祖代々伝わってきたものである。王をはじめとして、万人を守る者である。熊野権現として現れるのも我等のことである。過ちをしなさるな。宿縁によって汝に姿を見せるのである」

 猟師は、弓矢を投げ捨て、袖を合わせて、
 「これだから凡夫の力は情けないものです。神仏と知らず、矢でもって過ちを犯すところでした。恐る恐る罪深いことです」と畏まって、その木のもとに3つの庵を造り、「仰せの通りならば、ここにお移りください」と申し上げたところ、3枚の鏡は3つの庵にお移りになった。

 猟師は奉る物がないので、間に合わせに山芋を掘り、鹿肉を切って供御にそなえ、折から五月五日、端午の節句であったので、携行食に持っていた麦を飯にして、それに山芋や菖蒲などを取り添えてお供えし改めて急ぎ山を出て、天皇の宣旨を賜ろうとして都へ上った。
 熊野権現もまた、藤代(和歌山県海南市藤代町)から、猟師より先に飛行夜叉(ひぎょうやしゃ)を遣わし、夢のお告げでもって天皇に申し上げた。そこへ千代包が参上して、この由を申し上げたので、天皇は千代包に「早く御宝殿を造り申し上げるように」と仰せ付けられた。

 夜を日に継ぎ、三所の御宝殿を件の所に造り、人も多く集まって、在家の数も300軒ばかりになった。その人々はみな熊野権現をもてなし申し上げた。権現の神力によって、人は楽しみ、世は栄えていった。千代包はその宮の別当(熊野三山の管理職)になった。このときの人皇は七代孝霊天皇と申した。

 西日本の熊野修験に対し、東日本で興隆したのが羽黒修験ですが、その開山にも、カラスの導きがあったと伝えられます。

◆ 参考文献

西尾光一・貴志正造 編 鑑賞日本古典文学第23巻『中世説話集 古今著聞集・発心集・神道集』角川書店

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