※本ページは広告による収益を得ています。
熊野の神使、八咫烏
Photo by law_keven
熊野の神々の使いとされる八咫烏(ヤタガラス)。
熊野の神々の最初の祀り手である猟師は、狩りの途中に山中迷って困っていたところをヤタガラスに導かれて、初めて熊野の神々に遭遇しました。
『神道集』巻二に見える熊野権現縁起譚「熊野権現の事」に、そういう伝承が記されています。「熊野の本地5」で現代語訳していますので、それをここに引用します。
牟婁郡の真砂(まなご。西牟婁郡中辺路町。清姫の故郷です)という所に、千代包(ちよかね)という猟師がいた。獣待(ししまち)をしていたときに道が途絶えて、どこへ行くこともできない。そんなときに八咫烏(やたがらす)が出てきた。 猟師は大きな猪に手傷を負わせたが仕留めることができず、どこへ逃げたのかわからなかったが、逃がすに惜しい猪なので、探したが見つけられない。 その猟師は烏と一緒に行くと、曾那恵(そなえ。本宮大社旧社地の川向こうに備崎(そなえざき)という所があり、そこに備宿(そなえのしゅく)という修験道の霊場がありました。ですので、その辺りを曾那恵といったのでしょう)という所へ入った。猪はそこに倒れ伏していた。また、烏は何処ともなく姿を消していた。猟師は怪んで、この猪のことを忘れて、不審に思いながら、歩いていくと、烏もいなくなってしまったので、天を仰いで立っていたところ、イチイガシの大木の上に光る物を見つけた。 この物が自分に危害を加えようとする物だと思ったので、猟師は大きな鏑矢をつかんで、その発光物体に問いかけ、 この発光物体は3枚の鏡になって答えて言った。 猟師は、弓矢を投げ捨て、袖を合わせて、 猟師は奉る物がないので、間に合わせに山芋を掘り、鹿肉を切って供御にそなえ、折から五月五日、端午の節句であったので、携行食に持っていた麦を飯にして、それに山芋や菖蒲などを取り添えてお供えし改めて急ぎ山を出て、天皇の宣旨を賜ろうとして都へ上った。 夜を日に継ぎ、三所の御宝殿を件の所に造り、人も多く集まって、在家の数も300軒ばかりになった。その人々はみな熊野権現をもてなし申し上げた。権現の神力によって、人は楽しみ、世は栄えていった。千代包はその宮の別当(熊野三山の管理職)になった。このときの人皇は七代孝霊天皇と申した。 |
西日本の熊野修験に対し、東日本で興隆したのが羽黒修験ですが、その開山にも、カラスの導きがあったと伝えられます。
◆ 参考文献
西尾光一・貴志正造 編 鑑賞日本古典文学第23巻『中世説話集 古今著聞集・発心集・神道集』角川書店